少年時代①・・・新聞配達
高校の卒業式が終わったその日の夜、船に乗り、東京に向かった。鹿児島から「準急」の列車で神戸の姉のところを経由して行った。東京に着いた翌日から始めたのが新聞配達である。新聞屋の親父は、受験が済むまでは新聞配達はしないでいいということを言っていたのだが、それは嘘だった。大学受験をしながらの新聞配達のアルバイトということになった。当時の田園都市線(今は大井町線となっている)・中延駅前の朝日新聞の販売店だった。
その店に一緒に入ったのが同じ大島高校の同級生の水間英樹と榊藤夫だ。どうして三人一緒だったのか、今は思い出せない。他の二人は覚えているのだろうか。新聞屋の親父は同じ名瀬市の出身で元警察官らしかった。
東京に来て、当時の新聞配達のことを思い出しながら、もっと昔の小・中学時代の苦しかった新聞配達のことを思い出してしまった。往時渺茫としながら・・・
ぼくは4人兄弟の末っ子である。一番上が姉(13歳上)、次が兄(9歳上)、姉(5歳上)と続く。中学生になる頃には、姉は神戸、兄は奄美の離島・徳之島、すぐ上の姉は一緒に暮らしていたが神戸に行く。3歳で母親を亡くしたぼくの幼い頃の思いでは、父親と一緒に過ごした記憶しかない。いつも喘息・リュウマチで苦しんでいて、病弱な印象しかない父ではあるが、心のどこかでいつも尊敬していた。怖いというイメージはあったが、叱られた記憶はあまりない。また、ぼくは確かに父に大切にされてきたように思う。そして、今思うと不思議なのだが寝るときはいつも父と同じ布団で、リュウマチで痛いという手をさすりながら寝入っていた記憶が今でも残っている。?
生活は常に貧しく、華やかな思い出はあまりない。父との生活を思い浮かべても決して楽しい記憶が残っている訳でもない。
ぼくは小学校の頃は遠足が嫌いだった。理由は弁当を父に作ってもらうのが申し訳なかったことと遠足に行っている間に父の具合が悪くなったらどうしようかと何故か考えて不安だったからだ。
ぼくは、小学校の6年生の後半から自然とシマの新聞の配達を始めていた。当時のシマの新聞はページ数もせいぜい裏表2面程度であったと思う。その地元の新聞を取る世帯は結構多く、配達の件数はかなりの数で、早朝の配達の時間は相当かかった。4時くらいに起きていき6時すぎまでかかった。父がいつも起こしてくれた。新聞配達から帰る頃は同じ学校の子どもたちの登校にぶつかる事がかなりあった。見られない様に帰るのに腐心していた。また、南の島とはいえ冬の季節風の寒さは相当に応え、冬の間はいつも手の甲はあかぎれができ、このあかぎれが痛く、痒くどうにもならなかった。
中学生になったら集金業務までしなければならなくなり、土・日は集金に追われた。なかなか金を払ってくれない人がいたりして金集めの苦労はうんざりした。配達は朝早く大変ではあったが、さほど精神的な苦痛はなかった。この新聞配達のおかげで割とぼくの生活は、給食費などを払ってもゆとりがあった。
中学2年生の冬、2学期の終わる頃、父は脳梗塞(脳溢血?)で倒れた。半身不随になり、父は寝たきりの状態で自宅で療養生活をすることになった。当時はめったに入院という事はなかったのだろうか。
3年生になる頃に徳之島にいた兄が嫁さんを連れて転勤してくれた。兄貴の嫁さんは、今思うと、ぼくの父の世話をするためにぼくらの住む名瀬に来てくれたのかと申し訳ない気持ちである。父の看病で大変だったことを覚えている。
3年生の時、担任の高田昭三先生からいい加減に新聞配達は辞めたらどうかと言われた。父の病気の事やら3年生になってクラスの委員長(会長)という任務まで負わされて、過重になっていたのか授業中居眠りが多かったからだと思う。仕方なく担任の勧めに従い、2学期になって新聞配達を辞めた。途端にぼくの生活は苦しくなった。
それから何ヶ月か卒業まで給食費は払えなかったことは覚えている。
担任の先生は何も言わなかったが、立て替えてくれたのだと思う。
そのことに気付きながら、ぼくはお礼の一言も言っていなかった。高田先生には不義理ばかりをしてきたように思えてならない。
兄嫁の看病むなしく父は翌年の3月、ぼくの高校入学の直前に亡くなる。齢59。還暦を迎える年であった。
その店に一緒に入ったのが同じ大島高校の同級生の水間英樹と榊藤夫だ。どうして三人一緒だったのか、今は思い出せない。他の二人は覚えているのだろうか。新聞屋の親父は同じ名瀬市の出身で元警察官らしかった。
東京に来て、当時の新聞配達のことを思い出しながら、もっと昔の小・中学時代の苦しかった新聞配達のことを思い出してしまった。往時渺茫としながら・・・
ぼくは4人兄弟の末っ子である。一番上が姉(13歳上)、次が兄(9歳上)、姉(5歳上)と続く。中学生になる頃には、姉は神戸、兄は奄美の離島・徳之島、すぐ上の姉は一緒に暮らしていたが神戸に行く。3歳で母親を亡くしたぼくの幼い頃の思いでは、父親と一緒に過ごした記憶しかない。いつも喘息・リュウマチで苦しんでいて、病弱な印象しかない父ではあるが、心のどこかでいつも尊敬していた。怖いというイメージはあったが、叱られた記憶はあまりない。また、ぼくは確かに父に大切にされてきたように思う。そして、今思うと不思議なのだが寝るときはいつも父と同じ布団で、リュウマチで痛いという手をさすりながら寝入っていた記憶が今でも残っている。?
生活は常に貧しく、華やかな思い出はあまりない。父との生活を思い浮かべても決して楽しい記憶が残っている訳でもない。
ぼくは小学校の頃は遠足が嫌いだった。理由は弁当を父に作ってもらうのが申し訳なかったことと遠足に行っている間に父の具合が悪くなったらどうしようかと何故か考えて不安だったからだ。
ぼくは、小学校の6年生の後半から自然とシマの新聞の配達を始めていた。当時のシマの新聞はページ数もせいぜい裏表2面程度であったと思う。その地元の新聞を取る世帯は結構多く、配達の件数はかなりの数で、早朝の配達の時間は相当かかった。4時くらいに起きていき6時すぎまでかかった。父がいつも起こしてくれた。新聞配達から帰る頃は同じ学校の子どもたちの登校にぶつかる事がかなりあった。見られない様に帰るのに腐心していた。また、南の島とはいえ冬の季節風の寒さは相当に応え、冬の間はいつも手の甲はあかぎれができ、このあかぎれが痛く、痒くどうにもならなかった。
中学生になったら集金業務までしなければならなくなり、土・日は集金に追われた。なかなか金を払ってくれない人がいたりして金集めの苦労はうんざりした。配達は朝早く大変ではあったが、さほど精神的な苦痛はなかった。この新聞配達のおかげで割とぼくの生活は、給食費などを払ってもゆとりがあった。
中学2年生の冬、2学期の終わる頃、父は脳梗塞(脳溢血?)で倒れた。半身不随になり、父は寝たきりの状態で自宅で療養生活をすることになった。当時はめったに入院という事はなかったのだろうか。
3年生になる頃に徳之島にいた兄が嫁さんを連れて転勤してくれた。兄貴の嫁さんは、今思うと、ぼくの父の世話をするためにぼくらの住む名瀬に来てくれたのかと申し訳ない気持ちである。父の看病で大変だったことを覚えている。
3年生の時、担任の高田昭三先生からいい加減に新聞配達は辞めたらどうかと言われた。父の病気の事やら3年生になってクラスの委員長(会長)という任務まで負わされて、過重になっていたのか授業中居眠りが多かったからだと思う。仕方なく担任の勧めに従い、2学期になって新聞配達を辞めた。途端にぼくの生活は苦しくなった。
それから何ヶ月か卒業まで給食費は払えなかったことは覚えている。
担任の先生は何も言わなかったが、立て替えてくれたのだと思う。
そのことに気付きながら、ぼくはお礼の一言も言っていなかった。高田先生には不義理ばかりをしてきたように思えてならない。
兄嫁の看病むなしく父は翌年の3月、ぼくの高校入学の直前に亡くなる。齢59。還暦を迎える年であった。
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